2014年7月20日日曜日

【狛犬アルバム】長者山新羅神社(青森県八戸市長者)


 八戸市を出張で訪れた翌朝、七夕祭りがまさに始まる日ということで、中心地は祭りの準備が始まっていました。夏を迎える素敵な雰囲気の中、仕事の前に、宿泊したホテルを早朝に出ました。そこから12、3分ほど歩いた長者山という丘にある長者山新羅神社を訪れました。2014年7月に訪問しました。

<設置されている場所>
境内前の鳥居の横

<台座の年号>
文政十一年(1828年)




 この日は朝から日差しが強く、丘に向かって歩くと少し汗ばんできました。やがて緑豊かな丘にさしかかると、右手に黒木の鳥居(樹皮のついた鳥居のこと、樹皮のないものは素木といいます)が見えます。そこから少し登ると境内です。その手前にある鳥居の少し奥の左右に一対の狛犬がいました。

 肉感的で壮麗優美な江戸獅子タイプの狛犬です。前脚が太く、がっしりとしていて、顔つきもふっくらとしています。吽形もやや口が開いています。台座は高く立派なもので、この時代(1820年代)にしては非常に立派なものといえます。

 八戸は江戸末期から、物産の輸出に力を入れ、その商圏は江戸までの太平洋沿岸から、日本海側の新潟、秋田まで、かなり広範囲に及んでいたそうです。こういった交易の中で、江戸の狛犬文化が伝わったのではないかと推測しました。

◆「八戸港」(Wikipedia) - 八戸港の歴史は八戸藩が開かれた17世紀の中頃に遡り、当時は鮫浦または鮫浦港と言われていた。・・・(中略)・・・開港当初から漁港や悪天候時の避難港として利用され、寛文4年(1664年)には八戸藩が江戸へ廻米し、寛文11年(1671年)の東廻海運の就航で鮫浦は寄港地になった。

 また、今回の八戸訪問で初めて知ったのですが、津軽と南部は歴史的に仲が悪いそうで、りんごのお土産は津軽だからやめたほうがいいと冗談まじりに言われました。かなり複雑な歴史だったので、簡単にまとめてみました。こういった地方の歴史を知ることが出来るのも興味深いです。

◆「津軽と南部」(Wikipedia)

戦国時代:
南部氏が岩手中部、北部、青森全域を支配していたが、南部一族の大浦氏が津軽にいた南部系豪族を滅ぼし、津軽を支配下に入れる。

安土桃山時代:
中央工作によって大浦氏が津軽氏と名乗り豊臣政権から大名として認めらる。

江戸時代:
大浦氏は関ヶ原の闘いに家康側で参戦し、津軽氏は江戸幕府から弘前藩として認められ、独立に成功する。
岩手北部、中部、青森東部を支配下においていた盛岡藩の藩主は南部氏。

明治以降:
戊辰戦争では弘前藩、盛岡藩ともに旧幕府側についたものの、弘前藩が先に新政府側に回った。
その後、盛岡藩が降伏するが、降伏後に弘前藩によって、盛岡藩領地への放火、襲撃が行われた。

 これはかなり複雑でし。遺恨を残すのも無理はないのかもしれません。津軽と南部では気質も方言もかなり違うとのことでした。こういった地方の歴史を知ることが出来るのも興味深いです。

 そして、東北地方といえば、数多くの義経伝説が残されていることでも有名ですが、ここ長者山新羅神社もそのひとつでした。平泉にいた義経に命令された家臣たちが、この長者山に木を植えたという伝説が残っているそうです。ちょうど境内には近くの小学生が一学期の終業式の朝礼のために集まっていました。神社の境内での終業式、いいですね。

<基本情報>
長者山新羅神社
青森県八戸市長者1-6-10


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<関連サイト>
◆「長者山新羅神社」(Wikipedia)
◆「ばぐる、長者山新羅神社の狛犬、長いも、カップ&ソーサ、今日の石(桂化木)。 」(香取某平の津軽弁日誌)
◆「はぐらん、長者山新羅神社、朝顔、カップ、今日の石(桂化木)。 」(香取某平の津軽弁日誌)

2014年6月14日土曜日

【狛犬アルバム】中村八幡神社(東京都世田谷区深沢)


 中村八幡神社は、深沢の交差点からほど近い住宅地の中にあります。ネット上での情報を事前に見て探していたのですが、どうにも見つかりません。おかしいなあと迷子になりかけた頃に、若いお母さんと小さな子どもが古い平屋の木造の民家の前でなにやら立ち止まっていました。何だろうと近くにいくと、なんとその民家が、中村八幡神社だったのでした。2014年6月に訪問しました。

<設置されている場所>
鳥居の左右

<台座の年号>
昭和二十年(1945年)




 普通の民家のブロック塀の後ろ、鳥居の左右の地べたに、小さな狛犬が一対置かれていました。サイズは高さ30cmほどでしょうか。この小さな狛犬はともに崩れはじめていて、阿吽の別もわかりません。ただし、残された部分から完成当時をイメージすると、筋骨隆々として小さいながらも力強い狛犬だったのではないでしょうか。台座には昭和二十年五月吉日とありました。

 とはいえ、年月による摩耗は痛々しいほどで、向かって右側(通常なら阿形)の前脚は雑に修復されていますが無惨な姿です。すっかりやせ細って鉄筋がむき出しになっています。もとは大宝神社型だったのでしょう。おそらく鉄筋で簡単な骨格を組み、そこにモルタルで形を作っていったのでしょう。沖縄の民家の屋根や、門柱の上に置かれたシーサーも、瓦屋根をふいた職人が残った漆喰で作ったといいます。それと似ていますね。

◆「狛犬ニュース」(日本参道狛犬研究会ホームページ)
 この狐の作り方は、まず番線と呼ばれる針金で狐の形を作りそこにモルタルを塗って、小さな専用の鏝を使い完成させます。これは左官屋の仕事で「モルタル彫刻」と云います。足の細さは石彫では出来ない見事な仕事と云えます。その後十分に乾燥させ青黒い塗料を塗ってブロンズ擬き狐の仕上がりです。 (写真・文;山田敏春)・・・(中略)・・・こちらが部分拡大写真でミカゲに見えるかも知れないが、セメントに黒い砂が混ぜて固めてある。元々このセメントの上から塗装してあったが、建立20年を越して、塗装が剥げてセメントが剥き出しになったようだ。
 しかし、しかし、どうも今までにも何対かは、このセメントしょうわを見ていたけど気が付かなかっただけかも知れない。これからはしょうわもホントにミカゲ石かどうか良く確かめよう。  【報告者 三遊亭 円丈】


 それにしても、民家がそのまま神社になっているとはどういうことなのでしょう。田畑の中にあった小さな神社が、周りの土地を切り売りして今の民家だけが残ったのか。それとも新神道系なのか、だとしたら狛犬などわざわざ作らないでしょう。謎に思いながら、その日は帰宅しました。

 後日写真を見たり、ネットで調べたりしていると、小さな境内というか、民家の前のスペースに庚申塔があることがわかりました。私の訪問時のメモにも中村庚申様とあります。もしかすると、宅地開発からこの庚申塔を守るため作られた神社なのかもしれません。


◆「庚申塔」(Wikipedia)
庚申塔(こうしんとう)は・・・(中略)・・・、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。・・・(中略)・・・庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。・・・(中略)・・・申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、・・・(中略)・・・村の境目に建立されることもあった。庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。・・・(中略)・・・明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。


<基本情報>
中村八幡神社
東京都世田谷区深沢4-31-18


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<関連サイト>
◆「中村八幡神社(世田谷区深沢)」(杜を訪ねて)

【狛犬アルバム】天祖神社(東京都世田谷区中町)


 金剛寺から北へ少し向かうと上野毛通りに出ます。その通りに面して大きな鳥居と石灯籠があるのが天祖神社です。2014年6月に訪問しました。

<設置されている場所>
参道の途中

<台座の年号>
昭和三年(1928年)




 台座には昭和三年狛犬新調とありましたが、台座のみが古くて、狛犬は新しい岡崎現代型でした。おそらく昭和後期のものだと思われます。ここも粕谷さんという方が奉納者になっていました。

 その先にはきれいに石が敷かれた参道が続き、新しい神楽殿もありました。大きな境内の割に拝殿は小さなものでしたが、こちらも比較的新しくきれいでした。そしてその瓦屋根の上には、鬼瓦のように端に獅子がいました。前脚で瓦をつかみ、まるで空を飛んでいるかのような軽やかな動きと愛らしい顔つきが印象的でした。




<基本情報>
天祖神社
東京都世田谷区中町3-18-1


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<関連サイト>
◆「天祖神社(世田谷区中町)」(杜を訪ねて)
◆「旅先で出あった狛犬・獅子29(世田谷区中町3天祖神社)」(定年、これからの人生楽しみ探しの旅)
◆「中町天祖神社|世田谷区中町の神社」(猫のあしあと) - 中町天祖神社は、世田谷区中町にある天祖神社です。中町天祖神社の創建年代は不詳ですが、江戸時代には当地周辺(野良田村)の鎮守社だったといい、明治維新後天祖神社と改称したといいます。
◆「File.45 中町天祖神社例大祭」(世田谷散策記 世田谷の秋祭り) - それまでの町名は野良田でした。この名は江戸時代初期にはあり、何も無い野原を意味する「野良」が開墾された耕作地であるから「野良田」と呼ばれるようになったものだと考えられています。しかし住民は気に入っていなかったようで、この名は田舎めいているという住民の意見を考慮し、位置的に玉川村(現在の玉川地域)の中央にあることから玉川仲町と改名されました。そして昭和44年の住居表示の際に中町に変更となった次第です。

【狛犬アルバム】金剛寺(東京都世田谷区中町)


 世田谷区中町は東急大井町線の北側に広がる豪邸街です。そんな中に金剛寺という真言宗の寺院がありました。2014年6月に訪問しました。

<設置されている場所>
薬師堂の前

<製作年>
不明




 本堂に向かう右側に薬師堂があり、その前に一対の古い狛犬がいました。台座に年号が刻まれておらず、かなり摩耗しており、いつ頃のものかわかりませんでした。ただこの蛙のような平ぺったい顔つきは江戸後期、1800年代はじめではないかと推測されます。ふさふさとした尻尾が台座にかかるように彫られているなど、しっかりとしたつくりです。


<設置されている場所>
門を入って左側

<製作年>
不明




 門を入って左側のうっそうとした場所にも一対の狛犬がいました。阿形は顔自体がほとんど剥落してしまっています。このような片隅に忘れられたかのように置かれているのはそのせいでしょうか。ただ、さきほどの薬師堂の前のものより、大きく立派な狛犬です。いわゆる江戸狛犬で、毛並みはふさふさとしていて、口元もふっくらとしています。阿形は前脚の下に珠を、吽形は子獅子を抱えているようです(これも多くが剥落してしまっていますが)。

 寺院の前の解説によると、「この地に土着帰農した吉良の遺臣粕谷遠江守が、・・・(中略)・・・金剛寺を創建し、一族の菩提寺とした。」とのこと。このあたりにはとても東京とは思えない豪邸が立ち並んでいましたが、粕谷姓が多く見られました。古くからの地主として粕谷一族は今もまだ健在のようです。


<基本情報>
金剛寺
東京都世田谷区中町2-20-11


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<関連サイト>
◆「お寺の獅子(狛犬)(世田谷区仲町2金剛寺)」(定年、これからの人生楽しみ探しの旅)
◆「ゴルフ橋のいわれ」(悠々自適) - 名字と言えば、この街には粕谷姓が多い。歩いて得られた知識によると、十六世紀末の慶長年間、この地で帰農した吉良(<注>参照)の遺臣粕谷遠江守の末裔の方々と思われる。そのほか宇田川、木村姓が眼につく。察するにこの一帯に古くから住む大地主の子孫一族であろう。一口に街の変貌とは言うものの、依然として変わらないものがあるのだ。・・・(中略)・・・<注> 吉良氏について― 鎌倉時代に成立した武士団。清和源氏足利義氏の長子、長氏(ながうじ)が、三河国吉良庄地頭職を名字の地として独立したのが始まり。代々の総領は足利一族の名門の地位を占めた。盛衰を重ねるうちに、室町中期、子孫の一部は武蔵国世田谷に拠って関東府に仕えた。ここでいう吉良氏はその一族である。総領系はその後に徳川家臣となり、吉良上野介はその子孫。

2014年5月25日日曜日

【狛犬アルバム】春日神社(大分県大分市勢家町)


 出張で訪れた大分市内のホテルの近くに、古い歴史の神社があることを発見し、早朝に訪れました。ここ春日神社は大分市の中心部にある神社で、大友氏の南蛮貿易の拠点としても栄えた歴史を持つとのことです。第二次世界大戦中の空襲によりその多くが焼失してしまいましたが、戦後に再建されたという神門、社殿は、落ち着いた朱色をしていて歴史のある堂々とした風格を感じさせました。2014年5月に訪問しました。


<設置されている場所>
拝殿の前

<台座の年号>
昭和3年(1928年)




 拝殿の前にはやや大型の一対の狛犬がいました。ギョロ目で豚鼻、横長の顔はひょうきんな顔つきです。阿形は巻き毛、吽形は直毛と彫り分けられており、吽形には角がありました。尾は小ぶりな平たい扇型で、五股に分かれています。前脚上部には渦を巻いたこぶのような模様もありました。いわゆる大宝神社型を基調としていますが、下唇をぐっと噛むような歯のくいしばりかたは、博多狛犬に似ていて、文化圏が近いことがわかります。


<設置されている場所>
神楽庫の前

<台座の年号>
平成3年(1991年)




 拝殿に向かって右手には、神楽庫があり、その前にも一対の新しい狛犬がいました。平成に入ってからの新しいもので、機械彫りのようでしたが、この時代にしては珍しい玉乗り狛犬です。互いに正面に向かい合うように設置されています。阿吽で若干あご髭の巻き具合が異なり、吽形には角がありました。また前脚の側面には流れるような毛が彫られています。豪華で立派な上半身に比べ、下半身が華奢なのが特徴的でした。


<基本情報>
春日神社
大分県大分市勢家町4-6-87


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<関連サイト>
◆「春日神社 | 時をつなぐ、大分の古社」(公式ホームページ)
◆「春日神社 (大分市)」(Wikipedia)
◆「大分市勢家町の春日神社」(おおいた百景)
◆「春日神社(大分市勢家町)」(ぐんさん 物見遊山記)


2014年2月10日月曜日

【狛犬アルバム】日吉神社(福岡県福岡市博多区麦野)


 日吉神社は西鉄大牟田線雑餉隈駅の近くにある神社です。住宅街の中に、立派で大きな境内がありました。2014年2月に訪問しました。

<設置されている場所>
参道の途中

<台座の年号>
大正十二年(1923年)




 拝殿の前には一対の博多狛犬がちょこんとたたずんでいました。無骨ですが、彫りが深くしっかりとした作りでした。小さな豚鼻に横耳の愛嬌のある顔つきです。髭は左右にきれいに流れており、尻尾は生クリームを絞り出したような形で、大きく立ち上がっています。左が吽形、右が阿形と左右の配置が逆になっていました。向かって左の吽形は珠を左の前脚の下に置いています。小ぶりですが、筋肉質で力強さを感じる狛犬です。


<設置されている場所>
拝殿と本殿の間の横

<台座の年号>
不明




 拝殿の奥の左右にあった小さな石柱の上には苔むした古い猿像がありました。日吉神社の神使は猿です。

「【狛犬の仲間たち】1-5. 猿」

 向かって右側の猿像は小さな石の台の上に腰かけ、左脚を右手が握っています。向かって左側の猿像は脚を折りたたみみ、長い手で石の台を抱えていました。ともに苔むして摩耗していましたが、まん丸のくりっとした瞳にとても穏やかな表情をしていました。


<基本情報>
日吉神社
福岡県福岡市博多区麦野6-8-18


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<関連サイト>
日吉神社(神社探訪・狛犬見聞録)

【狛犬アルバム】地禄神社(福岡県福岡市南区井尻)


 地禄神社は、西鉄大牟田線井尻駅から徒歩3分の住宅地の中にある神社です。2014年2月に訪問しました。

<設置されている場所>
拝殿の前

<製作年>
大正十四年(1925年)




 住宅地の路地の突き当たりに小さな鳥居をみつけました。鳥居をくぐるときれいな境内にまっすぐに伸びる石敷の参道があり、その先の拝殿の前に一対の狛犬がいました。

 大宝神社型狛犬の流れを受け継ぐ博多狛犬でした。吽形が下唇をぐっとかみしめる表情などはまさに博多狛犬。顔をよく見ると、髭がドラえもんのように三本線がひいてあり、鼻の穴もまんまる、目の玉も描かれていていい表情です。阿吽の別は口元以外にはありませんでした。

 アップの表情はこちら。




<設置されている場所>
参道の途中

<製作年>
不明




 参道の途中には四角い石柱の上に鳩の石像がありました。口元は阿吽にはなっていないようでしたが、ちょこんと乗る様がとても愛らしかったです。鳩は八幡神社の神使とされているとのことですが、この神社との関係はあるのかどうかはよくわかりませんでした。

◆「鳩 ハト  八幡神社(応神天皇)の鳩」(神使の館) - 宇佐八幡神である応神天皇の神霊は、山頂の巨石から「金色の鷹」となって出現し、鍛冶の翁、三歳の童子へと変わり、後に「金鳩」に変じたとされる。また、宇佐八幡から岩清水八幡に分霊する際や、源氏が祈願した際に金鳩が現れたとされる。このような伝承から鳩が神使とされたと思われるが、漠然としていてはっきりわからない。

 ちなみに、正面の拝殿は神楽殿のようにすっきりとして、壁がない作りでした。かつては田畑の中にあって、ここで五穀豊穣の祭りが行われていたのでしょうか。境内は小さかったのですが、ごみ一つ落ちていなくてとてもきれいに整備されていました。地域の人々にとって今も大切な場所になっている神社に巡りあえると、とても嬉しいものです。


<基本情報>
地禄神社
福岡県福岡市南区井尻5-5-27


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<関連サイト>
地禄神社(神社探訪・狛犬見聞録)
地禄神社(神社探訪)