2014年6月14日土曜日

【狛犬アルバム】中村八幡神社(東京都世田谷区深沢)


 中村八幡神社は、深沢の交差点からほど近い住宅地の中にあります。ネット上での情報を事前に見て探していたのですが、どうにも見つかりません。おかしいなあと迷子になりかけた頃に、若いお母さんと小さな子どもが古い平屋の木造の民家の前でなにやら立ち止まっていました。何だろうと近くにいくと、なんとその民家が、中村八幡神社だったのでした。2014年6月に訪問しました。

<設置されている場所>
鳥居の左右

<台座の年号>
昭和二十年(1945年)




 普通の民家のブロック塀の後ろ、鳥居の左右の地べたに、小さな狛犬が一対置かれていました。サイズは高さ30cmほどでしょうか。この小さな狛犬はともに崩れはじめていて、阿吽の別もわかりません。ただし、残された部分から完成当時をイメージすると、筋骨隆々として小さいながらも力強い狛犬だったのではないでしょうか。台座には昭和二十年五月吉日とありました。

 とはいえ、年月による摩耗は痛々しいほどで、向かって右側(通常なら阿形)の前脚は雑に修復されていますが無惨な姿です。すっかりやせ細って鉄筋がむき出しになっています。もとは大宝神社型だったのでしょう。おそらく鉄筋で簡単な骨格を組み、そこにモルタルで形を作っていったのでしょう。沖縄の民家の屋根や、門柱の上に置かれたシーサーも、瓦屋根をふいた職人が残った漆喰で作ったといいます。それと似ていますね。

◆「狛犬ニュース」(日本参道狛犬研究会ホームページ)
 この狐の作り方は、まず番線と呼ばれる針金で狐の形を作りそこにモルタルを塗って、小さな専用の鏝を使い完成させます。これは左官屋の仕事で「モルタル彫刻」と云います。足の細さは石彫では出来ない見事な仕事と云えます。その後十分に乾燥させ青黒い塗料を塗ってブロンズ擬き狐の仕上がりです。 (写真・文;山田敏春)・・・(中略)・・・こちらが部分拡大写真でミカゲに見えるかも知れないが、セメントに黒い砂が混ぜて固めてある。元々このセメントの上から塗装してあったが、建立20年を越して、塗装が剥げてセメントが剥き出しになったようだ。
 しかし、しかし、どうも今までにも何対かは、このセメントしょうわを見ていたけど気が付かなかっただけかも知れない。これからはしょうわもホントにミカゲ石かどうか良く確かめよう。  【報告者 三遊亭 円丈】


 それにしても、民家がそのまま神社になっているとはどういうことなのでしょう。田畑の中にあった小さな神社が、周りの土地を切り売りして今の民家だけが残ったのか。それとも新神道系なのか、だとしたら狛犬などわざわざ作らないでしょう。謎に思いながら、その日は帰宅しました。

 後日写真を見たり、ネットで調べたりしていると、小さな境内というか、民家の前のスペースに庚申塔があることがわかりました。私の訪問時のメモにも中村庚申様とあります。もしかすると、宅地開発からこの庚申塔を守るため作られた神社なのかもしれません。


◆「庚申塔」(Wikipedia)
庚申塔(こうしんとう)は・・・(中略)・・・、中国より伝来した道教に由来する庚申信仰に基づいて建てられた石塔のこと。・・・(中略)・・・庚申講(庚申待ち)とは、人間の体内にいるという三尸虫という虫が、寝ている間に天帝にその人間の悪事を報告しに行くのを防ぐため、庚申の日に夜通し眠らないで天帝や猿田彦や青面金剛を祀り、勤行をしたり宴会をしたりする風習である。・・・(中略)・・・申は干支で猿に例えられるから、「見ざる、言わざる、聞かざる」の三猿を彫り、村の名前や庚申講員の氏名を記したものが多い。仏教では、庚申の本尊は青面金剛とされるため、青面金剛が彫られることもある。神道では猿田彦神とされ、猿田彦神が彫られることもある。また、庚申塔には街道沿いに置かれ、・・・(中略)・・・村の境目に建立されることもあった。庚申塔の建立が広く行われるようになるのは、江戸時代初期(寛永期以降)頃からである。以降、近世を通して多数の庚申塔が建てられた。・・・(中略)・・・明治時代になると、政府は庚申信仰を迷信と位置付けて街道筋に置かれたものを中心にその撤去を進めた。さらに高度経済成長期以降に行われた街道の拡張整備工事によって残存した庚申塔のほとんどが撤去や移転されることになった。現在、残存する庚申塔の多くは寺社の境内や私有地に移転されたものや、もともと交通量の少ない街道脇に置かれていたため開発による破壊を免れたものである。


<基本情報>
中村八幡神社
東京都世田谷区深沢4-31-18


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<関連サイト>
◆「中村八幡神社(世田谷区深沢)」(杜を訪ねて)